家事を朝からしております
母親は
すでにもう家にいません
片一方は
朝からテレビ三昧
オイオイ…
さて、続きをせねば(;´д`)≡3
青いミサイル
今朝の印象的な長い夢。また「ミサイル」の夢だった。
夢=とあるウインタースポーツをやっている男の子がロシアで合宿(?)している。/(場面変わって)その男の子と阪神間のどこかにいる「私」。ミサイルが飛んできて危険だからということで、大勢の人々が避難させられようとしているが、表向きの理由は別のもので人々に真実は知らされていない。「青い色をしたミサイルの映像」がフラッシュし、「私」はそれがミサイル攻撃であることを知っているので、その時いる場所から飛行機で北海道に逃げようと空港へ向かう電車に乗るために駅に向かうが、既に駅は利用規制されていた。それでもなんとか駅にもぐりこみ、電車に乗ったあたりで目が覚めた。
というわけで、これでミサイルの夢を少なくとも3回は見たことになる。
毎回、見るミサイルの形状が異なっている。
こういった夢がいずれ現実となるものなのかどうか、現時点ではまだわからない。
しかし「夢で未だ到来していない未来を見る」というのはそもそもそういうものだし、その夢が現実のものとなるまでの期間、「まだわからない」という曖昧さを抱えたままで日々の生活を送らなくてはならない点に関しては、夢で未来を知っていることも知らないことも、一見変わりはないことになる。
ただ、「人は誰でもいずれ死ぬ」ということを知って(自覚して)生きるのとそうでない場合とでは微妙に「生き方(人生観)」が変わってくるだろうし、それと同じく、「あらかじめ夢で未来を知っている」場合にも、その当人の生き方や考え方に多少なりとも変化がもたらされることだろう。
夢で見た未来図があんまり明るいものではない場合でも、それが「暗くて嫌な未来だから」その通りになって欲しくないと願うことは、「死ぬのはイヤだから永遠に死にたくない」と願うことと一緒で、「そう願えばそのとおりになる」と思い込むこともまた「不死」というありえないことを実現できるとカン違いすることに他ならないから、そうやって真実から目をそらしたまま幻想の中で「死ぬまで」生き続けていくのもどうだかなあ~と思うけど、でも実際は多くの人がそのような「嫌なこと」からは目を逸らし続けたまま「人生のオイシイところ」だけを求め続けて生きていく。神様仏様に「どうか私にはオイシイところだけ与えてください」と都合のいい「お願い」をしながら(笑)。
そうやって、もしミサイルの着弾地点やら台風の進路やらSDjgqjjg6njg7w=">5Zyw6ZyHの発生場所や規模やらetc...を「都合よく」変えられたとして、そこにも「アナタ」と同じように人生のオイシイ部分を懸命に追求しながら生きている大勢の人々がおり、そのような人々に「自分にとっての嫌な出来事、自分の人生には起きて欲しくないようなこと」を振り替える、といった振る舞いには「原始的で幼稚なワガママさ」しか感じられないんだけど、「『私の』祈りだか加持祈祷だとかだけは『トクベツに』聞いてもらえる」などと思い込んでいるワガママなヒトたちが大勢いて、「祈りは通じる」なんてカン違いしたまま死ぬまで生き続けていく。
「未来を変える」のは生半可なことではできない。なのに「変えられる」つもりでいる大勢の人々は、その「偉大な何か」の中にいて、そこから一歩も外に出ることさえ不可能であるにもかかわらず、何かを「変えられたつもり」になって得意がっているに過ぎないのだ。
「これから起きる人類にとっての大きな不幸を『わたしが』変えてみせる」などと大言壮語する愚か者をあちらこちらで見るにつけ、そう思わないではいられない。
言っておきたいのは、まず、「アナタには未来を変える力はない」ということと、「変えられた先に対する配慮が欠けている」こと、そして「そもそも変える必要などないのだ」ということ。
これこそが自然法爾、あるがままに…。